20120226

馬たちよ、それでも光は無垢で/古川日出男





















馬たちよ、それでも光は無垢で/古川日出男(2011)
 
3.11後の想像力とは?その1点にのみ焦点を当てた作品。舞台は古川の故郷である福島、そして自著『聖家族』と同じく東北。つまり東日本大震災の被災地そのものを描いているのだ。

古川は小説を生み出す創作家だ。しかし、本作は現実と創作の狭間を行き来する。序盤、古川が実際に現地に訪れた際のその思いがルポ風に描写される。多分に古川は、被災地の「現実」を圧倒的な「非現実」として捉えざるを得なかったがために、彼の想像力は想像を失い、ただ「見たまま」を捕捉するに留まったのだろう。

現実が圧倒的な非現実として逆説的に成り立った場合、そこに創作=想像力が入り込む余地はない。なぜなら、想像力は現実に内包される「非」の部分を描き、訴え、現実の(隠れた)不条理や豊穣さをあぶり出すために活かされるからだ。

そう考えると、3.11以降、多くのアーティストが「想像」ではなく、チャリティーや支援活動など具体的な「行動」に重点を置いていたことにも合点がいく。しかし、それでも古川は一人の小説家として葛藤しながらも、終盤、被災地の「現実」、そして日本の「現実」にわずかな希望を見つけるために「想像」を取り戻していく。

この過程は非常に切迫感を持ち、読む者は古川が本作に込めた「想像力を善きことに使う」という意味を知っていく。それがいかに過酷で、しかしながらいかに有効か、を。エンディングの情景に、擦り切れた言葉かもしれないが、「再生」や「救済」への微かな光を見ることができるだろう。3.11以降の想像力として。

20120225

恥知らずのパープルヘイズ





















恥知らずのパープルヘイズ/(著)上遠野浩平(原)荒木飛呂彦


「フーゴは己である」


「正義は絶対的な悪に対抗できるのか?」ジョジョ第4部までの主題は、そうだった。第5部は違う。「システムとしての悪の内部破壊はいかにして可能か?」である。

第5部でいうシステムとは「マフィア」。絶対的なボスを頂点に幹部が配置され人員が組織的に動く。このシステム内で「上」に行くには、服従と貢献を繰り返すしかない。

その一見利他的な行いには、組織に所属することによる「思考停止」による「依存」による「安心」という利己的な感情があることを忘れてはいけない。

第5部では、この「マフィア」が社会的に必要な悪ではなく人道に反する悪を行っていたことによって、主人公であるジョルノが「仕掛ける」。

従来のジョジョシリーズなら外部から対抗を挑むが、ジョルノは内部から対抗する。そう、「マフィア」に入るのだ。

ジョルノの目的は、システム内の悪を排除し健全に運営すること(マフィアの場合は社会的に必要悪として)。だから、絶対的なトップである「ボス」と勝負する。

そうした大きな目的があるからこそ、ジョルノは道なき道でも覚悟を持って一歩を踏み出せる。そこに「思考停止」による「依存」による「安心」は全くない。

自ら考え、自らの理想を、自らで実践していく。そう、「依存」ではなく「自立」。こう考えたとき、第5部で描かれた「マフィア」を「日本社会」と置き換えることは乱暴な思考実験だろうか。

「日本社会」も一つの大きなシステムだ。ただ、今は周知の通り大きな問題を多数抱えている。末期的にならないように改善策が求められている。

例えば、現状のシステムに対抗しうる新しいシステムを作る。それは「革命」であり、(大きな犠牲を伴う覚悟がなければ)もはや漫画の世界にだけ実現できることである。

だから、ジョルノのように内部からシステムを改善していくことが必要ではないか。システムへの「思考停止」による「依存」による「安心」ではなく、システムへの「チェック体制」による「自立」による「安心」。

同じ「安心」でも、どちらが本当の「安心」か。ただ、この「自立」が非常に難しい。戦後、人々は概してシステムを動かす政治に対し任せっきりだった。

結果として、気づけば一部の既得権益層(マフィアでいう幹部)しかうまみを得られない構造が出来上がっていた。その構造に気づいた時には、我々の前には修復不能な焼け野原が広がっているだけだった。

近い未来そうなる前に、システムを動かす政治に対し引き受ける行動に移らなければいけない。ジョルノのように、自ら考え、自らの理想を、自らで実践していく。「新しい公共」や「地域主権」もそうした行動をとれる人々の一つの受け皿として存在しているはずだ。

前置きと脱線が長くなったが、「恥知らずのパープルヘイズ」の感想だ。主人公であるフーゴは、ジョルノとは全く正反対のメンタリティを持っていた。つまり、「思考停止」による「依存」による「安心」を求めていた男である。ジョルノを含めた5人のメンバーを率いる幹部ブチャラティが「ボス」との決戦を告げたとき、彼のメンバーの中で唯一「マフィア」から抜け出すことをしなかった。

フーゴは自らの「安心」のために、ブチャラティにはついていかなかったのだ。一方でブチャラティやジョルノは他人の、社会の、「安心」を手に入れるために動いた。その「覚悟」の差を、小説の序盤で紐解かれていく。

漫画ではジョルノとミスタ以外のメンバーは死亡する。しかし、「覚悟」の先にある死だったのはいうまでもない。それに気づいたフーゴも小説の終盤、自分のためではなく他人の、社会の「安心」を手に入れるための「覚悟」を知る。全てを任せていた自分が、全てを引き受けて考えられるようになったのだ。

いやむしろ、ずっと考えていたのかもしれない。フーゴのスタンドであるパープルヘイズはつねに「苛立っている」のが特徴だ。スタンドが自分の精神状態を表すものであるならば、その苛立ちは「覚悟」を持てない自分への苛立ちが反映されていたといえよう。

『恥知らずのパープルヘイズ』は、「依存」体質の人間が「自立」し「覚悟」を手に入れるまでの話だ(もちろん他にも切り口はあるが)。それは、まさに今を生きる人々が機能不全を起こしているシステムにとるべき振る舞いであり、進むべき道であるのではないか。そう考えると、フーゴに自分自身を投影しながら読んでいった。

また、ジョルノという主人公がいる漫画では、サブキャラの「落ちていく」人間のその後は描けない。だからこそ、読み応えも十分あった。漫画と小説、二つあわせてジョジョのテーマである「人間讃歌」を知ることができるに違いない。ちゃんちゃん。

最後に、『恥知らずのパープルヘイズ』の一文をば。まさに、いまの我々の話ではないかと気づく一文をば。

これは、一歩を踏み出すことのできない者たちの物語である。将来になんの展望もなく、想い出に安らぎもない。過去にも未来にも行けず、現在に宙ぶらりんにされている者たちが足掻いている。そのこについての忌憚である。(略)明日もなく、故郷もない。その中で人はどこに希望を見出すのか、あるいは何を絶望として怒りをぶつけるのか。そのことを一人の少年に託して、追求していくことにしよう。

20100529

WRITE THE FUTURE by Alejandro González Iñárritu



WRITE THE FUTURE by Alejandro González Iñárritu


「NIKE」の世界的なフットボールブランドキャンペーン「WRITE THE FUTURE(未来をかきかえろ)」の一環として制作された長編TVCMが、非常に面白い。

ウェイン・ルーニーやロナウジーニョ、クリスティアーノ・ロナウドなど
サッカー界のスーパースターが登場しているが、見どころは選手たちではなくその物語。
なぜなら、監督を務めるのが「バベル」や「21グラム」で知られるアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥだから。

エンターテインメント性あふれる演出からは、
「たった一人の行動が世界中のあらゆる人の未来をかきかえる」という
彼ならではのメッセージ性がにじみでている。

イニャリトゥ作品の常連俳優、ガエル・ガルシア・ベルナルがチラッと出演しているのも、心憎い。

20100523

Bela Borsodi/Photographer


















単なる「商品」に「人格」を与えるオーストリアの写真家、Bela Borsodi(ベラ・ボルソディ)
彼の作品をピックアップしてみた。




















「FOOT FETISH」:ヒールとグラマラスな女性の裸体の融合














 「DIAMONDS」:ジュエリーとプライドが高そうな顔の融合




















 「WELCOME」:バッグと頭を抱えてしゃがむ女性の融合
















「NIGHT LIFE」:スワロフスキーと暴飲暴食する二人組の融合



その独特な表現から浮かび上がるのは、
消費による自己実現を要求される現代社会へのアイロニズム。

日本の文脈に照らし合わせると、
消費を通じた人々の「個性化」が強まる/ゆえに「没個性化」する80年代の空気を切り取った、
田中康夫「なんとなく、クリスタル」的な表現方法に通じるところがある。




六本木へ遊びに行く時には、クレージュのスカートかパンタロンに、ラネロッシのスポーツ・シャツといった組み合わせ。ディスコ・パーティーがあるのなら、やはりサン・ローランかディオールのワンピース。
なんとなく、クリスタル/田中康夫(1980)




ただ、80年代を通過して「ファストファッション化=倹約化」した
00年代以降の日本の視点で考えると、
こうしたアイロニカルだが単純な表現はあまり響かないと思う。
「分かってますよ、そんなこと」という梯子外しが待っているからだ。

だけれども、消費社会の象徴であるファッション分野の広告として創られた
ベラ・ボルソディの上記のような作品を眺めると、
単純さゆえの表現の力強さを感じてしまうのも確かだ。

20100516

地域ブランドづくりのためのデザイン・IT活用ガイド














地域ブランドづくりのためのデザイン・IT活用ガイド

【国内における地域ブランドに対する関心の高まりや取り組みが活発化している背景やそれに伴い生じている課題などに触れながら、地域ブランドについての基本的な知識やブランド強化のためのデザイン・ITの活用方法などについて解説】した北海道庁作成のガイドブック。

・ブランド・地域ブランドの本質
・プロジェクトの進め方や戦略
・デザイン・ITの活用方法
といった地域ブランディングに求められる 
基本的なディレクションスキルが身につく


・取り組み事例
・支援制度一覧
・キーワード索引
など役立つコンテンツも充実。


インデックスやポイントのピックアップし、
分かりやすくまとめているため、
読みやすく見やすいのもうれしい限り。

正直、クオリティ十分のこのガイドを“タダ”で入手できるのはありがたい。
北海道庁、万歳!!


20100502

ある朝スウプは/高橋泉



ある朝スウプは/高橋泉(2003年・日本・90min)
キャスト:並木愛枝、廣末哲万、高橋泉


恋や愛が途切れそうな瞬間に頭に浮かぶのは、
「もしもあのとき出会わなければ・・・」
「あの場面でああすれば・・・」という仮定の考え。

それはやはり後の祭りであって意味が無い。

だからこそ「出会い」と「別れ」の必然性をしっかりと噛み締め、
恋愛の絶望から一抹の希望を見つける振る舞いにシフトする必要がある。

なぜなら、人生は「それでも」続くからだ。

そんな真理をあるカップルの日常を淡々と描写しながら際立たせたのが、
この稀有の名作「ある朝スウプは」だ。

今までのどんな純愛映画にもないような
切な過ぎるラストシーンに、思わず身震いしてしまった。

『セカチュウ』が虚構の「100%純愛映画」なら、
この作品はキャッチコピーよろしくリアルな「100%純愛映画」だ。


20100425

「多世代の家」@ドイツ














社会の原点への回帰を実現する「多世代の家」/日本生命フランクフルト事務所 久万明子(2010)[PDF]

○「多世代の家」とは?
・若年層と高齢層、子どものいる夫婦、または夫婦のみ、母子家庭、独身者等、様々な立場の幅広い
世代の人々が同じ場所で、互いに助け合いながら生活することを目的としたドイツの集合住宅。
・若年層から60歳以上の高齢層まで幅広い世代がバランスよく居住。
・民間の不動産会社が建設。

○これまでの経過
・1994年にケルン近郊のミュンスターランドに初めて設立。
・2000年頃から、同様のコンセプトを持つ物件が流行。
・現在はベルリン地区だけで150件以上。
・ミュンヘン・ケルン・フランクフルトといった大都市から、街作りの中心に「多世代の家」を置く地方まで全国各地に賃貸物件と分譲物件を建設。
・国による手厚い支援や企業との協力関係で施設が増加。

○誕生の背景
・少子高齢社会、核家族化、女性の社会進出、高齢者とその子との同居率の低下
→日本に共通する課題

○入居者の目的
・「孤独な生活を望まない」「子どものために良い住環境が必要」「社会の役に立ちたい」など。

○構造
・住居部分に自由に集まることができ、子どもの遊び場やパーティ会場、趣味の場として利用できる共同空間「コミュニティルーム」を併設。
・バリアフリー環境の整備、エレベーターの設置など、高齢者や障がい者にとって暮らし易い構造。

○サービス
・幅広い世代が参加できる文化教養(文学・音楽・コンピューター・その他生涯教育)や趣味(スポーツ・陶芸・インターネット・テレビゲーム)から、ボランティアや専門スタッフによる支援(暮らし相談や育児関係)までさまざまな活動プログラムを用意。
・物件により、介護サービスを提供する部屋を配置、ケアマネジャーを常駐、託児所を設置、乗用車のドライバーを常駐、クリーニングサービスを提供。
・低料金で食事が取れるカフェテリアや食堂を常設。

○効果
・支えとなる家族を有していない高齢者にとって集合住宅は理想的な住居環境。
・近隣住民が子どもを一緒に育てることが、仕事と育児の両立の助けとなり、出生率の上昇につながる。
・学校や幼稚園から帰宅した子どもを高齢者が世話したり、高齢者が住民とコミュニケーションを取ることを通じた心の健康の維持。
・子ども、高齢者を世話する家族の精神的な負担が軽減。
・幅広い世代が自由に会話できる場があることで、育児・教育や高齢者介護、外国人の生活等といった個々が抱える問題や悩みの相談・解決を行える。

○社会学的考察
・産業・経済の発展に伴い、社会は「ゲマインシャフト(人間が地縁・血縁・精神的連帯などによって自然発生的に形成した集団=コミュニティ)」から「ゲゼルシャフト(人間がある特定の目的や利害を達成するため作為的に形成した集団=ソサエティ)」としての利益社会に発展(ドイツの社会学者F. テンニースの社会進化論)。
・個人主義・利益優先主義社会の弊害や少子高齢社会における諸問題の発生が見られるため、「ゲゼルシャフト」から「ゲマンシャフト」へ共同社会を見直すことが必要。
・人々の精神的な豊かさを取り戻し、将来への不安・閉塞感を打破するための方法論として、「多世代の家」が推進されている。

《感想》
60年代以降の団地化・郊外化による地域の空洞化、85年以降のコンビニ・電話・テレビなどの普及による個人のタコツボ化、市場・行政のサービスの整備による家族機能の低下などが段階的に起きたことによって、我々は「周り以外はみんな風景@宮台」的な非常に小さなテリトリーを築くようになる。

インターネット環境が発達した現在では、そのテリトリー内で行われる安心で安全なコミュニケーションがより強化されてきている。一方で、小さなテリトリーゆえに吐き出しきれない鬱憤が、子どもの虐待など異常な行為に結びつく可能性も指摘されている。

また、自分のテリトリー外である社会との触れ合いを避けることで、他人を信頼するより他人を疑う思考に陥りがちになる。「あいつらは何を考えているか分からない」→「あいつらは敵だ」→セキュリティ強化→不自由な自由。一方で、自分のテリトリー外は「どうでもいい」と捉えることで、自分を入れ替え可能な存在として他者と簡単に関係を持ったり、ケータイの連絡先を消すだけで他者との関係性も消去できる振る舞いが増える。

こうした現象が生まれるのは、社会の包摂性が失われてきているからだろう。つまり、人・共同体は多様であるはずなのに、人・共同体が多様性を受け入れられなくなってきているのだ。子どもが親に相談できない問題は、駄菓子屋のおばちゃん的な存在が対処してくれる。親が子どもの面倒を見切れない日は、隣のお姉ちゃんが世話してくれる。かつては、そういうシチュエーションがあったはずだ。

今後、社会の包摂性を復活させるには、アーキテクチャをいじるしかないと思う。つまり、多様な人・共同体と触れ合える機会が生まれやすい環境をつくるのだ。その具体的なプロジェクトが、今回取り上げたドイツの「多世代の家」。

もちろん日本でも多世代が交流できる「イベント」はある。しかし暮らしの拠点となる「家」は、ただ血縁の二世帯が暮らす機能しか持っていないタイプが多い。地域づくりを考える際は、そこからさらに進んだ血縁ではない人々も気軽に交流できるドイツ的な家づくりに、ぜひ取り組んでほしい。